料理をしていて、いつも心に浮かぶのは「素材の声をどう聴くか」ということです。なかでも京野菜と出汁の関係は、その問いかけにまっすぐ応えてくれる存在だと思っています。京野菜は、ただ茹でただけでも味が立つ。けれども、出汁を添えることで、その個性はぐっと輪郭を帯び、より深い余韻を残してくれるのです。九条ねぎ|甘さを包む昆布出汁の調べたとえば、九条ねぎ。冬場の九条ねぎは、霜にあたってとても甘くなります。そのまま鍋に入れても十分においしいのですが、昆布出汁を合わせると、その甘さが丸く支えられるんです。昆布のグルタミン酸が、ねぎの持つ果糖やグルコースと響き合い、口の中でひとつの和音のように広がっていく。強く主張せず、そっと寄り添う。そんな関係性が、料理人としては何より尊いものに思えます。賀茂なす|香りと油を生かす控えめな出汁一方で、賀茂なす。夏の盛りに収穫されるこの丸なすは、身が緻密で、油を含ませるととろりとほどけるような食感になります。田楽に仕立てるとき、かつお出汁を効かせた味噌を塗るのも美しいのですが、私はあえてかつおを控えることがあります。なすそのものが持つ香りと油の甘さを前面に出したいときは、昆布と少量の煮干し、そこに白味噌を重ねるくらいで十分。すると、かつおの力強さに隠れてしまうはずの“なす自身の声”が、すっと顔をのぞかせるのです。京料理における出汁の思想思えば、京料理の歴史のなかで「出汁」は単なる調味料ではなく、野菜や豆腐と響き合う「場」だったのではないかと思います。動物性の出汁を使わずとも、昆布や干し椎茸でつくった精進出汁が、どれほど多くの料理を支えてきたことか。そこには、野菜の滋味をまっすぐに伝えたいという思想がありました。だからこそ、出汁は“脇役”でありながら、いつも料理の土台として欠かせない存在なのだと感じます。野菜出汁とは?サステナブルな旨味の新しい選択肢堀川ごぼう|出汁が変える表情の妙堀川ごぼうの煮物も、出汁との関係性をよく物語っています。堀川ごぼうは、中心に空洞を持ち、そこに旨味を含ませることで一段とおいしさが増します。濃いかつお出汁に炊き込めば力強い味わいに、昆布と薄口しょうゆだけで含ませれば、まるで澄んだ音色のようにやわらかい仕上がりに。同じごぼうでも、響かせる出汁が変われば、その表情はがらりと変わるのです。これは音楽でいえば伴奏のようなものかもしれません。メロディーはごぼう自身に任せ、出汁はその旋律をどんな調子で支えるのかを決めていく役割。料理を考えるとき、私はそんなふうに感じています。壬生菜|香りを生かす干し椎茸の出汁また、京野菜の中には「香り」を重んじるものもあります。たとえば壬生菜。ほんのりとした辛味と青さを持つこの菜は、かつお出汁で炊いてしまうと、その清らかな香りがどこかへ飛んでしまうことがあります。そんなときは、干し椎茸の出汁を選びます。椎茸のグアニル酸が、壬生菜の苦味や辛味をやさしく包み、香りを引き立てる。まるで別の表情を見せてくれるのです。出汁の選択は、素材の「声色」を変える作業でもあるわけです。日々の台所での対話料理人の現場で面白いのは、毎日の仕入れで「今日の野菜はどんな声をしているか」を感じ取ることです。九条ねぎの香りが強ければ昆布を厚めに、賀茂なすが水っぽければ鰹をひと振り強めに。数字では測れない小さな調整が、実は料理の大きな違いを生み出しているのです。まさに“対話”という言葉がぴったりで、その日その瞬間にだけ成り立つ一皿が生まれるのだと思います。おわりに|出汁は素材を映す鏡「京野菜と出汁」と聞くと、一見シンプルでありふれた組み合わせに思えるかもしれません。でも、その裏側には、素材をどう聴き、どんな響きを生み出すかという無数の選択が隠れています。強く出汁を利かせて迫力を出すこともあれば、ぎりぎりまで抑えて素材に語らせることもある。どちらが正しいということはなく、ただ「その日の野菜にどう寄り添うか」という問いに向き合うだけなのです。料理人として台所に立ち続けるなかで、私は少しずつ学びました。出汁は“味を加えるもの”ではなく、“素材を映す鏡”なのだと。京野菜の声をそのまま伝えるために、どんな音色を重ねるか。その積み重ねが、京都の食文化を今に伝えてきたのではないかと思います。今日もまた、野菜が届きます。箱を開け、香りを確かめ、指で触れて重みを測る。その瞬間に、「さて、この声にはどんな響きを添えようか」と考える。出汁とは、そんな日々のやりとりのなかで、静かに育っていくものなのです。関連記事料理人が京野菜を使う本当のわけ京野菜で紡ぐシーズナルコースの組み立て方【京野菜カレンダー】四季を彩る旬の京野菜と有名な京料理