料理の最後に必ず訪れるのが「盛りつけ」という工程です。包丁を入れ、火を通し、味を調えたその先で、器に料理をのせる瞬間。ここで料理の印象は大きく変わります。味そのものを変えるわけではありません。けれど、器が持つ色や質感、形が野菜と出会ったとき、その料理が語りかけてくる声はまるで別物になるのです。聖護院かぶら|黒の器が引き立てる白の美京野菜を扱うと、そのことを特に強く感じます。たとえば聖護院かぶら。白く、丸く、柔らかなその姿を盛るとき、私はどうしても黒い器を手に取ってしまいます。白の奥にある淡い緑や、火を通したときににじむ艶が、黒の器にのせると、驚くほどはっきりと浮かび上がる。まるで舞台に立たせたように「主役は私です」とかぶらが語り出すのです。賀茂なす|漆器の艶が引き出す輝き賀茂なすもまた、器によって表情を変える野菜のひとつです。油をまとい、照りを帯びた賀茂なすの田楽。その艶やかさを引き出すなら、漆器の光沢に勝るものはありません。漆の深い黒に映える紫色と金色の味噌。ほんの少し光を受けるだけで、料理全体が呼吸をするように輝くのです。ここでは「食べる前に視覚で満たす」という大切な役割を、器が担ってくれていると実感します。器は野菜と対話する存在器選びをしていると、野菜と対話しているような感覚になります。万願寺とうがらしを炙ったとき、皿の上で緑がより鮮やかに映えるのは、素焼きのざらりとした土の器。火で焼かれた香りと、土の器の質感が呼応するからです。堀川ごぼうを炊き合わせに仕立てるときは、淡い青磁の器が似合います。ごぼうの茶色を柔らかく受け止め、出汁の澄んだ色合いを美しく映し出してくれる。まるで器自身が「野菜の居場所」を整えているかのようです。盛りつけに迷ったときは“料理の声を聴く”盛りつけに迷うとき、私は「料理の声を聴く」ことにしています。素材がどんな風に見られたいか。どんな景色に身を置きたいか。たとえば、冬の九条ねぎをたっぷりのせた鴨鍋。器に移すときには、深さのある土鍋の取り鉢を選ぶのが一番しっくりくる。土の温かさがねぎの甘みを支え、鴨の旨みを穏やかに受け止める。逆に、夏の冷やし鉢に浮かべる青瓜や茄子は、ガラスの器にすっと収めると、途端に涼しさを帯びてお客様の目を喜ばせるのです。器が料理を完成させる瞬間器の力は、料理人の想像を超えることもしばしばです。試作の段階で「悪くはないけれど何か足りない」と思っていた一皿が、器を替えただけで急に息を吹き返す。これは「器が料理を完成させてくれる瞬間」なのだと思います。逆に言えば、どんなに素材を生かし、火加減を見極めても、器選びを誤れば料理は不完全に終わってしまう。器の存在は、それほどまでに大きいのです。京の器と京野菜が響き合う京野菜というのは、土地と歴史の中で育まれたもの。だからこそ、その姿をどう見せるかもまた「文化」の一部であると私は感じています。たとえば、洛中の陶工が手がけた器に京野菜を盛る。そこには、同じ土地の風土を共有する者同士の響き合いが生まれる。料理は一皿の中で完結するものではなく、器や景色を含めた「場」で成立するのだと気づかされるのです。おわりに|器は料理の共演者料理人としての私の仕事は、野菜をただ美味しく調理することだけではありません。器の上でどう輝かせるか、その姿をどう見せるかまでを含めて「料理」だと思っています。器は料理の背景であり、舞台であり、ときには共演者でもある。京野菜の魅力をもっとも自然に、もっとも美しく届けるために、これからも器との対話を重ねていきたいと思います。