料理というものを語るとき、どうしても調味料や盛りつけに目が行きがちですが、実のところ、料理人の仕事の大半は「火加減」との対話だと私は思っています。強火にするのか、弱火でじっくりいくのか。その判断ひとつで、野菜の顔つきはがらりと変わるのです。万願寺とうがらし|夏を映す強火の香ばしさたとえば、夏の京野菜の代表格・万願寺とうがらし。私はこれを強火で一気に炙るのが好きです。火にかけると、表面の皮がぷくっと膨らみ、やがてパリパリと音を立てて弾けます。その香ばしい匂いが立ちのぼる瞬間こそ、万願寺とうがらしの魅力が最も鮮やかに花開く。噛めば、果肉の水分がはじけ、青々しい香りとほんのりとした苦みが口いっぱいに広がります。強火で一気に仕上げることで、野菜の「夏らしさ」が際立つのです。堀川ごぼう|弱火が育む冬の滋味一方で、堀川ごぼうのような冬の野菜は、まるで正反対。あれを強火で炊いてしまうと、表面だけが煮崩れて、肝心の芯まで旨味が届きません。だからこそ、弱火でじっくり、じんわり。出汁の中で静かに火を通していくと、ごぼう自身が持つ土の香りと甘さが、にじみ出すように広がっていきます。何時間かけても、急がずに。弱火が育む時間そのものが、ごぼうの奥深さを引き出すのです。こうして考えると、「火加減」とは料理人にとって言葉のようなものだと思うのです。強火は感嘆符。弱火は小さな余韻。素材と会話をしながら、その日その時にふさわしい火の言葉を選んでいく。賀茂なす|迷いの火加減に出会うとき京野菜を扱っていると、ときに「迷いの火加減」に出会うことがあります。たとえば賀茂なす。油をたっぷり吸わせて強火で香ばしく焼けば、まるでステーキのような存在感を見せる。けれど、弱火で含ませれば、とろけるほどやさしい甘さを見せる。どちらも賀茂なすの真実ですし、どちらも間違いではありません。だからこそ、献立全体の流れや、お客様のその日の気分に合わせて、火を選ぶ必要がある。料理人としての「決断」が問われる瞬間です。九条ねぎ|“火を入れない”という選択また、火は「加えるもの」だけではありません。たとえば九条ねぎ。炙ることで香りを立ち上がらせるのも良いのですが、あえて火を入れずに生で刻めば、その青々しい香りが立ち上がり、料理全体のアクセントになります。つまり「火を入れない」という判断もまた、一つの火加減なのです。料理において火は、量ではなく質。強いか弱いかだけでなく、「使うか使わないか」まで含めた選択肢になるのだと思います。聖護院かぶら|強火と弱火のあいだを探る私が好きなのは、強火と弱火の“あいだ”にある表情を探ることです。たとえば聖護院かぶらを、出汁で含ませるとき。最初は少し強めに火を入れて煮立たせ、すぐに弱火に落とす。表面の繊維がほどけて、中心までじんわり火が届くように。強火と弱火、その間を行き来させることで、素材が無理なく呼吸できる環境をつくる。そんな「揺らぎ」が、料理の味をやわらかくしてくれるように感じるのです。乾燥野菜|“待つ火”が呼び戻す旨味また、乾燥野菜の扱いも火加減と深く結びついています。干した大根やししとうは、生のときより水分が抜けている分、火の入り方がまるで違う。急いで強火にすれば硬さばかりが残り、弱火すぎれば旨味が逃げてしまう。だから、ほんのり沸く程度の中火でじわじわと戻していく。その「待つ時間」こそ、乾燥野菜を生き返らせる魔法のようなものです。火加減は料理人の個性火加減は、料理人の個性そのものでもあります。同じ野菜を使っても、強火で勝負する料理人と、弱火で寄り添う料理人とでは、仕上がる皿はまるで別物です。だからこそ、私はいつも自分に問いかけます。「今日は、どんな火で語りたいのか」と。おわりに|強火と弱火のあいだに宿るもの料理を続けていると、不思議なことに「火と仲良くなったな」と感じる瞬間があります。焦げる寸前の香ばしさや、煮含めていくときの静かな音。その一つひとつが合図のように思えてくる。火は決して人に従わない。でも、耳を澄ませていれば、必ず何かを伝えてくれる。そういう存在です。強火と弱火のあいだ。その微妙な領域にこそ、京野菜は新しい顔を見せてくれる。料理人として、その声を聞き逃さないように、今日も火のそばに立ち続けるのです。乾燥野菜が導く、ミシュラングリーンスターへの道